ラボラボ 発達障害子育ち20年の記録

過ぎてしまえば全てネタ。楽しくラクに暮らすための試行錯誤継続中。三兄弟はそれぞれ特別支援教育を経て元気に毎日働いています。

ママさんコーラスとクラス役員

次男も入園したある時、園長先生が、


『ママさんコーラスに入らない?』とお誘い下さいました。


園長先生の友達というコーラスの先生にもあたたかく迎え入れられて、コーラス仲間の数人のママさんたちが、うちの子達を知ろうとしてくれたことが、本当にうれしかったです。


当時のスケジュール帳、コーラス隊のランチ会の欄に、『苦手だけど、楽しかった』って書いてありました。


子供中心の園生活では笑えない失敗談ばかりで、ほかの子の成長を聞くと落ち込むので苦しかったのです。


少し仲良くなっても、適切な距離感は保たないと、また無視されたらと気を張っていたように思います。


それでも理解してくれる人が少しずつ増えてきました。



次男 年長時に先生からクラス役員の依頼が、

三男 年長時はそのコーラス仲間のママさんが『一緒にクラス役員しない?』と誘って下さいました。


親同士が一緒に活動することで、子供を知ってくれて、

そのお子さんが一緒に活動をしてくれることもあり、

ようやく親子の園生活が少し楽しくなりました。



クリスマス会やおひなさま会の時に子供たちのおゆうぎの伴奏のように披露してきたコーラス。


三男卒業の時には、コーラスの先生に、


『お母さん、笑顔が増えたね~。最初は暗かったからね~』と笑って送り出してくれました。


私って、暗かったんだ~。


手をさしのべてくれた園長先生、

幼稚園のママさん方、

ありがとうございました。うれしかったです。


当時流行っていたのだめカンタービレのピアノバッグを10数人分、お揃いで作ってくれた方がいて。

細か-い手仕事なんですよ。尊敬!

愛に溢れた先生方のおかげの幼稚園生活

川で溺れて、

発達障害が発覚して、

始まった幼稚園生活。


すぐに加配の先生をつけてくださったこともあり、

あの子は何か違う、とまわりに気づかれた様子でした。


顔見知りのママさんに声をかけてみたら、

無視されてしまったので、

公園とは違ってそんな風になるんだと

ちょっとした洗礼でした。


それ以来、

こちらからママさんたちに話しかける勇気はみごとに打ち砕かれてしまいました。



長男はクラスに入ることもできなくて、先生と職員室で、過ごすことが多かったようです。


コミュニケーション不足のため、

うちでも兄弟ケンカの仕方もわからなかった子供たち。

友達に近づくことが少なかったので、ケンカトラブルの報告はありませんでした。


ある日は、滑り台で勝手にケガをして額を切ってしまった時は、連絡があったものの、

園内で怪我をさせたお詫びと、

『お母さんは大変だろうから、私が病院に連れていきますね。』と園長先生。


きれいに縫われて、帰ってきました。

次回は保険証を持って母が連れていくと、甘えからか暴れる暴れる。


なにしに来たんだ!イヤなら帰れっ!

とお医者に怒鳴られたことを話すと、


慣れるまで園長先生が連れて行ってくれました。

『おとなしくありがとうございました、みたいなことをゴニョゴニョ言ってましたよ』とのこと。


もう頭が上がりません。


また、20年ぶりに当時の担任の先生と雑貨屋さんでバッタリ。

障害児教育を学ばれてた理解者のおひとりだったのでうれしくって。


『今みんなどうしてます?』

『障害者施設で働いてるんですよ。

家事もよくやってくれて助かってます』

などと、今をいっぱい聞いてもらって、

立ち話すること2時間。


先生からは当時のエピソードもいろいろ。

『職員室でぐるぐる走り回ってて、可愛かった~』

『えっ?職員室で走り回ってたんですか?』

『はい、机の上を、ね』

『へっ?すみませんっっ!』

と、今さら聞いて謝っても時すでに遅すぎ。


こんなことも笑って見守ってくれていたのかと、

改めて感謝でした。



愛に溢れた園長先生の方針で、

先生みんながやさしい対応だったのたと思います。


もしかしたら知らないだけで、

たくさんのご迷惑をおかけしたことがあっただろうに、

母への報告は最小限。


恐縮することも、謝る機会も少なく、

ただただ、先生方に感謝の園生活でした。

障がい支援センターで初診断

大学病院先生のご指示通り、障害支援センターに三人連れて行ってみました。


(幼稚園見学の時にどっか相談に行かれたらどうですか?は、ここだったのね。たどり着くまでに2年も時間を要してしまいました。)


小児科医に診てもらい『広汎性発達障害』診断名がつきました。

この診断名はその後なくなり、現在は『自閉症』と診断書に書かれます。

発達検査したかなぁ。それも覚えていません。


それと、『次男君も気になるけど、様子見しましょう』


長男はわかっていたけど、次男も?ショックで、受け入れることができない、

夫にも言ったと思うけど、どんな反応だったかも今となっては忘れました。

将来を思うと涙がとめどなく出てくるし、眠れない夜が続きました。



とりあえず、目の前のやるべきことから始めることに。

まずは月一回の療育に通うことになりました。


子ども同士の活動と私は支援センターの先生と面談。

久しぶりの親子分離で、これだけでもずいぶんリフレッシュできました。

ま、下二人は手元にいたと思います。


子育てはこれでいいのか、不安はつのる、いろんな話を聞いてもらって、


『お母さん頑張ってるよ。それでいいのよ、合ってるよ、大丈夫よ』とたくさん励ましてもらえました。


療育を受けてもめざましい変化はないのです。

『ここに来ることで子供の障害は治るんですか?』とつめよったこともありました…。


それでも先生方は優しかったです。

治るものではない、寄り添うものだと理解するのには、数年かかりました。


ご縁があってあの時支えてくれた療育センターの先生方に今でも違った形でお世話になっています。


ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。